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はじまりの記憶

[ まえがき ]             


「建築家の魅力は、その空間性にこそ或る」

 数ある建築設計者の中で、住まいを通して家族が心から喜びを分かち合い、くつろげる居場所を提供できる建築家はそうはいないだろう。
横山の創りだす住空間は、優しさに満ちた『自分の家に帰って来る本質的な喜び』を実感出来るのだと云う。

 その設計思想は、設計段階から着工後の設計監理まで、どこまでも施主寄りだ。自らの考えを依頼主に押し付けるタイプのそれとは、実に真逆のベクトルを持つ。

 開放的な吹き抜け空間と緑の瑞々しい中庭を望める『光と風と緑の空間設計』に惚れ込んで依頼されることも多いと聞くが、横山の設計の特徴はなんといっても家族が豊かに暮らすための最良の住空間を演出できることだ。

 横山がどのような経緯から建築家になり、なぜこのような設計スタイルに至ったのか。

幼少~建築家を志すに至るまでを集約したエッセイ『はじまりの記憶』は、幼少に育んだ環境や記憶が、その人なりを形成するのに意外なほど色濃く反映されるということを改めて気付かされることだろう。

今回、掲載する理由について、敢えて横山に訪ねてみると「一方的に聞く立場としての心苦しさがあった」と、はにかみながら云う横山という人間の正直さと、どことなく気のおけないやさしさが覗えるのは、環境が人に及ぼす好例の最たるものと云えるだろう。

                                          Web制作編集部

『はじまりの記憶』

                    横山彰人


 人は生命を得て初めて息を吸ったその土地を、終生忘れないという。

私の生まれ育った村は山形と宮城の県境で、奥羽山脈の山ひだに囲まれた二井宿という小さな村だ。長い冬が終わり雪解けとともに春が来ると、こぶしの花や菜の花が咲きみだれ、日ごとに緑が濃くなるさまは感動的だ。夏は清流で泳ぎ、ホタルを追うというそんな豊かすぎる自然の中で、一年中朝から夕暮れまで泥んこになって遊んだ。ほんとうに今考えても幸せな少年時代を送った。

 父は歯科医で戦前は東京で開業していたが、疎開をし、そのままこの地で開業した。
患者さんは村の人をはじめ他県からも遠く山を越して来る方も多く、とても忙しくまた喜ばれ感謝もされていた。しかし母の話しによると関西育ちの父は、早く東京へ引き揚げようと思い、はじめの十年程はこの地になじめなかったらしい。母も関西生まれではあるが家が商家であったせいか患者さんからも好かれ、村の行事にも積極的に参加した。そして誰にでもやさしすぎるほどやさしかった。

 父は子供の私にこの地を離れて東京に帰るということを幾度となく散歩の時や、家の二階から遠くの山を見ながら自分に言い聞かせるように言っていた。もしそうなれば別れなければならない友達や山や川を想い、幼な心にも胸が痛んだ。なにげない父の話しが職業を決める時に大きな影響を及ぼすとは考えもしなかった。

 父の名刺には肩書きがなく名前と住所が印刷されているだけだった。ものごころがついた小学校二年のころだったが歯科医という仕事が自分に適していないこと、親が医者だったため強要されて歯科の学校へ進んだということを話してくれた。名前の肩書きを書きたくないほど職業にプライドを持てず、しかも仕事が嫌いだということの不幸さを私は理解できる年齢ではなかった。しかし自分に合った職業を選ぶことは重要で大切なことだと言おうとした父の想いだけは感じ取ったようだ。

 小学三年のころ町に行ったおみやげで父から宮沢賢二の伝記を買ってもらった。裕福な生家なのに生涯農業の技術改良に尽くした生き方や、童話『よだかの星』に感動した事を覚えている。それがきっかけで学校の図書館で伝記ばかりを読んだ記憶がある。二宮尊徳、キューリ夫人、シュバイツァー、パブロフ、野口英世などたくさん読んだ。

 小学五年のころ最初になりたかったのは、宮沢賢二のように農業に尽くす仕事をしたいと思った。小学六年の時は『山びこ学校』(無着成恭)の作文や『二十四の瞳』の映画や本を読んで、僻地で分校の先生になろうと思った。一人の先生が子供に与える影響はとても大きく密着した生活と教育は、子供の心にいつまでも残る素晴らしい仕事だと思った。

 この農業技術者か分校の先生になりたいという夢は高校の一年のころまで持っていた。三年間過ごした中学校も山懐に囲まれた生徒百人足らず、先生六人という小さな学校で慈愛に満ちた先生と、生徒、自然が共生しているような、そんなかけがえのない中学生活を送ったことも影響しているのだろう。

 父からは自由に職業を選んで良いと言われながら、具体的な段階になると東京に戻りたいという父の言葉を思い出していた。意識の中で自分の道は自分で決めようと思いながら組織や土地にしばられない自由業でないと家族が一緒にいることが成り立たないのではないかと思うようになった。

 住んでいた家は私の五歳のころ建てられたものだが、仮の住まいという気持ちがあったのか住まいの中に治療室があるような、小さくこじんまりした二階建てであった。部屋のどこにいても父と患者さんが話す声、歯を治療するモーターの音、母の炊事や風呂を沸かす薪のはじける音など、全ての音や家族の気配がわかった。六歳違う弟を含めた家族の食事は朝晩いつも一緒である。今の家族は父親の後姿が見えないとか、団らんがないとかいろいろと言われているが、それとは全く異なる濃密すぎる環境であり家族関係であった。  

あれほど宮沢賢二や分校の先生にあこがれていたが、家族の喪失感に対する恐れがあったのだろう。

 自由業という多くの職種の中で最終的に建築の道を選ぶまでは自分の能力の程度、適正というよりは好き嫌いといったいわば消去法で、いろんな職種が浮かんだり消えたりした。

 記録映画制作、医師、画家、演奏家、建築家、等々。自由業の中でも私なりに無意識に選択の基準をもっていたようである。かつて偉人の伝記をたくさん読んで感動し、自分なりに社会的に意義があり後まで残る仕事がしたいと考えていた。理数系は得意でなかったが、幼年時代から図工が好きだったので、総合芸術と言われる建築の道へ進んだ。

 後年東京で建築設計に携わり修練を積んでいくうちに、およそ芸術的な建築や要素に無縁な山里が、私の原風景として驚くほど影響を受けている事を知った。新しく設計に入る前に敷地を見、どんな建物がこの地にそして家族にふさわしいかと目を閉じる時、故郷二井宿の目にしみるような新緑や、山の匂いいっぱいの風、集落や暗く恐かった鎮守の森が浮かんでくる。私の設計する住まいは、いかにたくさんの風や、あふれる光、そして緑を住まいの内外に取り入れるかが設計のコンセプトになった。

 濃密な家族空間で育ったから、どこにいても家族のぬくもりや気配が感じる家を作る。坂を登りきった道から、母が炊事をしながら待っている台所の灯りがみえたように、
父親が疲れて帰ってきた時、我が家のキッチンや、子供部屋の灯りが遠くからでも見えるような住まいを、出来る限り設計するようになった。

 父が不本意に四十年以上住んだ土地が私にとってほんとうに大切な、豊かな心象風景をはぐくんでくれた。人生に「もし」と言うカードはないのかも知れないが、父が望み通り疎開して何年か後、東京に戻っていたらということをふと考える。

 昭和二十年から三十年にかけての東京の街で育つということは、想像しようにも全く想像外のことである。しかし、建築の道へは進まなっかたことだけは確かな気がする。

                                                  おわり

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