HOME > エッセイ > 『祗園祭・宵山・京町屋』

横山彰人エッセイ『祗園祭・宵山・京町屋』

横山 彰人 著

祗園祭・宵山・京町屋


 じめじめした梅雨が終り、空が夏の色に変わる頃から京都の町は祗園祭り一色に染まり、京都人の体温が少し上がるような気がする。

 祇園祭は平安京の時代に病気が広がりやすい夏を迎え、怨霊を鎮め慰める当事の儀礼が起源だと言われている。民俗学者柳田国男は、日本の祭紀催事の原点は京都の祇園祭にあると指摘している。

 大阪の天神祭、東京の神田祭とともに日本の三大祭りといわれ、中でも京都の祗園祭は、千二百年余りという歴史、その規模においても最も大きい。

 京都は年間を通じ二百余りの祭が催される中で、祇園祭りは民衆の祭りと言われ戦国時代や先の戦争を経て、存続の危機はあったものの、京都に生きる人たちの強い思い入れと結びつきがあってこそ続いて来たと言える。

 祗園祭りといえば私たちはテレビや新聞で報道される七月一七日、たくさんの山鉾が大和大路を練り歩く情景しか思い浮かばないが、十六日の夜の宵山.と翌日の山鉾巡行は祭の最後のクライマックスであって、実は七月一日の「切符切り」から始まって、約一ヶ月近くの間様々な行事が繰り広げられる。

 以前七月に入ったばかりの頃、ほろ酔い気分で東大和大路通りから一筋東山の方へ入った下河原の小道を、八坂の塔の方へ歩いていたら深い夜の向こうから、コンチキチン、コンチキチンという笛の音に乗った涼しいスリ鉦の音が、どこからともなく聞こえてきた。

 宵山と山鉾巡業に向けた稽古だと思われるが、その音色は幼い頃村の祭で鎮守の森から聞こえてきた、お神楽の鉦や笛の音にも似て、懐かしく思わず足を止めた事があった。 

 京都の友人から祗園祭の宵山の夜 〝祇園囃子〟 を聞きながら酒を飲まないかという誘いがあった。場所は百四十年程前に建てられた町屋で、今でも家族がそのままに近い状態で暮らしているという。

 近年京町屋は開発の波で急激に減っており、外観はそのままでも、内部はリフォームされ近代的なレストランやブティックに変えられている例も多い。

 私は現代の感覚を身につけた家族が町屋でどんな暮らしをしているのか、またどんな明かりを使って夜の時間を過ごしているか、興味があった。

 友人とは宵山の夕方、京都市役所前の御池通りと北から南にのびる新町通りの角で落ち合った。その日は雨が降りそうな空模様だったが、朝から蒸し暑く夕方になっても暑さは変わらなかった。
通りは幅四メートル程で両側にたくさんの夜店が並んでいた。 

 四条通りの方に目を移すと、人並みの向こうに見事な鉾がそそりたっていて、その鉾に取り付けた数知れない駒形提灯が、祭の雰囲気を盛り上げていた。私たちは人の流れに身を任せながら目的の町屋に歩みを進めた。

 友人は「毎年来てもなんか懐かしいんやな」と言った。
そしてしばらく歩いてから「しょうもない夜店ばかり多なって」と独り言のようにつぶやいた。見れば夜店は立ち食いのタイ料理や、クレープの店など確かに伝統的な祭にはそぐわない店も多かった。

 祭そのものは、古式によって守られているが、時代の流れで様々なことが変わってしまうのは仕方がないことなのだ。山鉾に登っての見学もかつては女性禁止であったし、提灯も蝋燭(ろうそく)から電気の白熱灯に変わり、そして昨年からは蛍光灯に変わった。
しかし友人の言おうとしているのは、その事ではないように思えた。幼い頃から浴衣を着て両親に手を引かれ、毎年この宵山に来ていたそうだ。そして夜店で金魚すくいをしたり、母にねだってオモチャなど買ってもらった。そんな幼き夢が夜店に溶け込んでいた。

 大学の時、父が亡くなり母が老いてからは、二人で宵山に来てこの町筋を歩いた。三十基以上の鉾が建つ町筋の中でも特にこの新町通りに建つ「北観音山」の鉾や、いまだに昔の面影を残すこの通りがとりわけ好きだったという。

 母は今年も来れた喜びと、昔を懐かしみながら宵山風景を楽しんでいたという。その母も一昨年亡くなった。

 毎年見慣れた宵山の風景だが、友人は一人になっても足が向いてしまうのだという。

 「厄除けのお札アー」「安産のお札買ってくれやす」と着飾った子どもたちが声をからしてお守りを売る声や、その賑わいは昔と変わらない。

 友人はそこにノスタルジーではない家族の幻影を重ねているかのようだった。祇園祭に家族と歩いた通りを歩くことによって、かつて一緒に共有した時間と空間が蘇ることは、贅沢でかつ幸せなことではないかと思った。それは友人に限らず多くの京都人に共通するものなのだろう。

 私たちは人の洪水の中、ようやく目的の町屋にたどり着き玄関の格子戸を開け中に入った。

 玄関から奥まで続く通り庭には、打ち水を含んだ石畳が鈍く光っていた。歳月の寂びというか、暮らしの歴史を敷石が語っているかのようだった。かつての時代には薬の商いをやっていたというその町屋は、表通りに面した部屋と奥の茶の間との間には町屋特有の坪庭があった。

 五坪ほどの庭には孟宗竹や柊の樹が植えられていて、足元のつくばいの石は深緑のコケでおおわれていた。   

 石炉籠の中には蝋燭の灯がともされ、池の水面にほのかな影を落としていた。

 私たちが通された部屋は、坪庭を隔てて狭い階段を登った二階の奥座敷だった。

 にぎやかな表通りから一棟離れたところに位置し、それだけに哀調をおびた祗園ばやしや祭のざわめきが少し和らぎ、静かに聴くにはとても良い場所だった。広縁つきの八畳ほどの部屋は畳が京間のせいか、関東の八畳の広さとくらべ随分広く感じられた。
床の間にはいつの時代のものだろうか、いかにも装丁が古い書の掛軸と、夏の茶花「カガリビソウ」が渋い花器に活けられて、古色然とした土壁によくなじんでいた。

 家族が住んでいるというが、家具、調度品は何もなく、また冷暖房設備もなかった。外に面する開口部は木製の建具、照明は部屋の中央に乳白の浅いシェードのついたガラスの笠に、むき出しの白熱灯の電球が下がっているだけである。明かりの真下でないと本も読めないほどほの暗く、聞けばほかの部屋も全て同じであるという。
現代の住まいの機能性、快適性からほとんど対をなす住まいと言っていい。

 私たちの他先客が三人いて、五人で大きな卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで車座に座った。使い込んだ赤い漆の盆の上に料理と伏見の地酒が並んだ。

 料理はこの時節のずいき、ゆば、なすびの田楽、ひとつだけ精進を外したあま鯛の蒸し物。聞こえてくる〃お囃子〃を聞きながら静かに飲んだ。

 聞こえてくる音色は表通りの雑踏の中では興奮がさらに高まるような気がするが、こうして静かな部屋の中で聞くと哀調を帯び、寂しげに聞こえるのが不思議だった。空間に馴染んだ頃、部屋の細かなしつらえに目を移すと、四方山に囲まれた盆地独特の蒸し暑さを涼しく過ごすために施された、暮らしに対する知恵と工夫があった。

 床は畳に藤を敷き詰め、薄い麻の夏布団があり、障子は風通しの良い葭簀障子に替えてある。少しの風のゆらぎを伝える麻暖簾など、それは多分に涼感を考えた心理的な演出でもあるのだろうが、いかにも見た目にひんやりと涼しげに見えた。

 広縁から坪庭を見下ろすと、自然の恵みを巧みに暮らしに取り込む住まいの構造である事が分かる。坪庭は太陽の光と自然の風を取り入れるばかりではない。風の井戸のような働きをし、関西の上空を流れる南南西の風を部屋に呼び込む。随筆『徒然草』の「家のつくりは夏を旨とすべし」というそのままのつくりであった。

 この日も夜になってさらに蒸し暑くなり、酒を飲みながら暑がりの私はひたすら涼を扇子に求め扇いでいた。隣で汗をかいている老人を気の毒に思い「扇子をお貸ししましょうか」と声をかけた。

 すると京言葉で「団扇で扇ぐと手を止めたあとよけい暑う感じる。
こうやってじっと我慢していると、時折入ってくる自然の風がとても気持いいんや」という言葉が返ってきた。その通りだと思った。  

 私は思ってもみない老人の言葉に、せわしなく扇子を動かしている自分が恥ずかしい気がした。

 これを機に低い声で老人は話し始めた。「祗園祭も昔とくらべたら様変わりや、ほんま、どないするんやろ」と誰に言うとはなしにつぶやいた。根っからの京都人の老人は、近代化の波が祭りそのものや京都人の気質まで変えてしまいつつあることを嘆いているようだった。関東人の私がうかがい知ることはできないが、核家族や少子化で山鉾を出す町内では人手が足らず、ボランティヤや、大学生の手を借りて成り立っているのだそうだ。

 「祇園祭だけであらへん、大文字焼きや時代祭もみんなそうや。」

 老人の言葉から京都と言う街は、大きな産業もなく観光事業の中で生きていかなくてはならない事情が透けて見えるようだった。

 観光客が集まる祭は残り、そうでない祭はかなり消えていったのだという。
 なかには京都人の手によってやめてしまった伝統行事もあるようだ。それは京都ばかりではなく他の地方都市はもっと急速に消滅の危機にさらされていることは、容易に想像できることだった。

 しかし私はこの祗園祭を代表とするように、たとえしたたかな観光イズムに染まっていても、老人やこの町屋に住んでいる人のように、伝統行事を支えている基盤ができていることは、力強く素晴らしいことだと思った。そしてなにより京都にはこの人たちのように、暑ければ暑いなりに、寒ければ寒いなりに自然を素肌に感じ、かたくなに自分の生き方、住まい方を守っている人がまだたくさん暮らしていることがうれしかった。

 部屋の隅々まで明るくする、現代の生活もかつてはこの部屋のようにひとつの明かりの下で家族が集まり、卓袱台を囲み、団らんをしていたのだろう。

 谷崎潤一郎の『陰影礼賛』にも「漆器、料理の美しさ、座敷の落ち着きは、ほの暗いあかりの中でこそすばらしい、ひとすじの光がその物の存在を生々しく美しく見せる」と言っているが、ほの暗いあかりの下で見る掛軸や茶花は引き込まれるように美しく、友人たちの顔も陰影が深くとても魅力的に見えた。

 暮らしの中で自然の風や季節の匂いや音を、いつも感じながら暮らしたいと誰もが望む一方で、快適さを追い求めていくことが幸せに繋がっていくと信じてきた。しかし私たちは戻ることができない、大切なものを過去に置き忘れてきてしまったのだろうか。

 祭のざわめきが少し遠くなり、聞こえてくる祭ばやしのテンポがわずかに速くなったような気がした。だれかが「戻りばやしやな」と言った。戻りばやしとは、調子を少し早めて変わることをいい、宵山のお囃子が終わり近いことを伝える音色らしい。

 明日はいよいよ山鉾巡行の日である。晴天であることを祈りながら坪庭越しに夜空を見上げるといつのまにか雲もなく、暗い夜の空に天の川が白く光っていた。
気がせくようなはやるような気持をおさえ、今年最後の宵山のお囃子を惜しむようにしみじみと聞いていた。


                             完



123