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建築をめぐる三人家族の物語

横山 彰人 著

第16章 高層階の罠

小児科の先生の話は続いていた。病名を告げられ動揺を必死で抑えている母親が取り乱さないように配慮をしているのか、目に笑みを浮かべ光の病状、原因、今後の対策をゆっくりかみ砕くように説明してくれたが、咲子は半分も理解できないでいた。理解しようとする冷静さを失って、黙って聞いていた。

「まず無気力症候群といっても、表れてくる症状は人によって違います。光君に特に見られるのは、会話力が少ないこと、つまり言葉のボキャブラリーが正常に発育した子供と比べ三分の一ぐらいでしょうか。そして名前を呼んでも反応が鈍い。この二つは明らかに言語能力と感情反応が著しく落ちていることを意味しています」

 先生の言葉で、〝正常な発育をしている子供と比べて〟という言葉が辛かった。光は正常ではないのか。英才教育をして一流の大学へという意気込みで頑張ってきたし、マンションも光のために購入を急いだのにと思うと、今ここに光と二人でいること自体信じられなく、悔しかった。

「本当は御主人も一緒に来て頂ければいいんですが。光君がこういう深刻な病気になったのも、奥様だけの責任ではありません。むしろ御主人の父親としての役割が欠如して起こるケースも多いのです」と言いながら、咲子が書いた問診表に目を落とした。その問診表とは、最初の所見の後、先生からいくつかの質問に答える形で記入したレポートだった。朝から寝るまでのリアルタイムの行動、武夫が帰ってから朝出勤するまでの過ごし方と、光と接触する時間と内容、テレビを見ている時間、幼児教育ビデオの内容、そして眠ってからどんな夢を見たかまで書き込むようになっていた。驚いたことに、渋谷の社宅から引越して来たと言ったら、社宅の間取りとマンションの間取りまで描くことを求められた。

 先生は、再び咲子の目を見ながら、「私の想像通り、大きく分けると原因は三つに分けることができます。ひとつは、前の社宅の住まいから今のマンションに移ることによって、環境の変化に子供の脳が拒否反応を起していること。精神や心がついていけず、情緒不安定になっています。大人は容易に適応できても、子供は特に乳幼児は言葉が話せない分、体や精神的にストレスをため込んでしまう結果になります。

環境の変化といっても光君の場合は、外の環境というより部屋の生活空間が以前の住宅と百八十度異なって、生活そのものが大きく変わってしまったことによります。
その意味では、住居に対する適応障害を起していることにもなります」

 先生はそこまで言うと話を止め、咲子の反応を見るように目で問いかけた。咲子は何も言えず、うなずくしかなかった。

「この症状は、子供だけでなく老人の場合も時々起こります。お年を召して社会との接点が徐々に少なくなっている状況で、住んでいる家も回りの環境も突然変わってしまうと、子供と同じように適応障害が起こります。老人と子供という弱者に多く表れる病気と言ってもいいでしょう」

 先生は、今度は問診表を指さしながら二つ目として、このクリニックを尋ねた直接の原因である光の症状について触れた。

「光君が床や壁をこぶしでドンドンと繰り返し叩く行為は、特に高層マンションの高層階に住む子供さんに多く見られる現象です。乳幼児なりに体を動かす運動、様々な人とのコミュニケーション、砂場遊びを含めた遊びが極端に不足すると、ストレスの大きな要因となります。そして、床や壁を激しく叩いたりする行為や、物を投げたり自分の頭を壁にぶつけたり、子供によって様々な行動に表れてきます。お母さんは光君を、あまり公園や散歩に連れて行かないんじゃないでしょうか。公園に行ったり、土や樹木に触れたり、同じ年齢の乳幼児と砂遊びをしたり、つまり〝群遊び〟する回数が少ないんだと思います。部屋にばかりいると、高層階の部屋にいる乳幼児の視線からは、樹も人が歩いている姿も見えませんし、外を見ても空しか見えません。つまり、常に空中に浮いている浮遊感というかそんな感覚の状態に脳がだんだん反応しなくなり、運動不足も重なり欲求不満の症状を表わしてしまいます。マンションの場合、子供に限らず老人も同じですが、低層階より高層階の方が、外に出る頻度が極端に少ないというデータも出ています」

 咲子は初めて聞く話だった。一般的なマンションでは、分譲価格は低層階より高層階の方が高いし、ましてより眺望の良い高層階は人気もあって競争率が高いのが常識だ。
最近のマンション購入者は三十代の子育て世代が中心なのに、こんな大事な事の情報は全く聞いたことが無かった。しかし先生の話は道理にかなうもので、確かにそうだろうと思った。先生は続けて、「ドイツでは、こう言ってはなんですが、四階以上では子育てをするなという条例も出ているくらいなんです。光君が住んでいる所は二〇階ですし、〇歳~三歳という乳幼児期は最も大切な時ですから、無理しても意識的に外に出ることを生活の中に習慣化させることが大切です」